小説家・黒澤はゆまさんの歴史の女性に学ぶ連載、今回の主人公は北条政子です。彼女は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室で、平安時代末期から鎌倉時代初期に生きました。政子と言えば、有名なのが、承久の乱の際の武士たちに向けた演説。これは、“日本史上最高の名演説”とも言われています。政子の言葉が、生死をかけて戦う武士たちに心底響いたのはなぜなのか? そこには、明確な意志と、理智の力が働いていました。(編集部)

拒絶が懇願になってしまう日本の女言葉

「日本の女言葉には命令形がないのだ」

脚本家として数多くの賞を受賞し、代表作「こんにちは、お母さん」はNHKのドラマにもなった永井愛さんは、1988年、文芸誌「すばる」に寄せた文章のなかでそう語りました。確かにその通りで、本来、強い命令調で言わなくてはならない場面でも、日本の女言葉はなぜか依頼形になります。

「やめろ」→「やめて」

理不尽なことへの拒絶が懇願になるわけですから、アンフェアなことと言わざるを得ません。ただ、日本の歴史を振り返ってみると、女性でなお命令形を駆使出来る、人種が一つあったように思います。

それは、巫女。

神の意志を伝える彼女たちの言葉は必ず命令になり、卑弥呼の昔から、数千、数万の男の生き死にを左右してきました。

時代を変えた巫女、北条政子

その代表的な例が939年(天慶2年)、関東で勢い目覚ましかった平将門のもとに、正体不明の巫女があらわれたときのこと。彼女は八幡大菩薩の化身を名乗り、「天皇の位につけ」とそそのかしました。将門は神託に従い、新皇の位について、京都に叛旗をひるがえします。

しかし、このときはまだ武士の力は成熟しておらず、朝廷の権威に屈服、京都から派遣された軍によって将門は戦死しました。ただ、巫女の語った「いつか武士達の政権を」という願いは死なず、関東の住人達の心に伏流となって流れ続けることになります。それが、マグマとなって再び吹きだすのが、300年後、鎌倉時代のこと。

そのとき「巫女」の役割を果たし、武士達の心に勇気を吹き込んだのが、今回の主人公、北条政子です。

北条政子の元に集う武士たち

1221年(承久2年)、三代将軍源実朝の死をきっかけにぎくしゃくしだした、鎌倉幕府と京都朝廷との緊張は極に達しました。後鳥羽上皇は、諸国の兵を集め、政子の弟で、幕府執権の義時追討の院宣(上皇の下す命令文書)を関東の武士たちに発します。世にいう承久の変です。政子は源平合戦の最後の勝者となり、鎌倉幕府を創始した源頼朝の妻でした。

鎌倉時代、当主が死んだあとの相続権はまず正妻にあり、屋敷・所領をおさめ、子供たちを監督する権限を有していました。政子は頼朝死後、落髪し尼となりますが、同時に後家として、子供たちが跡を継いだ鎌倉幕府を、宰領し続けていました。

もちろん、それは、頼朝の元妻という立場だけでなく、彼女の才気、カリスマが、ずば抜けたものだったからです。そのため、院宣を受け取った、武士たちは、政子の邸に集まってきました。彼らは皆、本来、気が強い人たちなのですが、そろいもそろって、心細そうな顔をしていました。

無理もありません。幕府が樹立してから、30年近くがたつとはいえ、武士にはまだまだ朝廷の権威に対して恐怖心があります。それは、子供がむやみに暗闇を恐れるのに似て、動物的なものでした。血のけがれがあるといって差別され、いじめ抜かれた過去が、この生意気な男たちの尻尾を怖気犬のように垂れさせてしまうのです。

屈強な武士たちに政子がかけた言葉

(もう、しっかりなさい)

政子は武士達の頬を、一人一人ホタホタと叩いてやりたいような、そんな気持ちになりました。彼女は、どれほど欠点が多く、血なまぐさいものであっても、頼朝とともに開いた武士の時代が、それ以前のものよりは、ずっとましなものであることを知っていました。

汗水たらして土地を切り開いたものが、権利を主張できる。そんなシンプルでリアリティのある原理によって、日本という国は動きはじめているのです。将門のときのように、もう、たおやかで、みやびな王朝時代のまどろみに、時計の針が戻ることはありません。

武士たちのなかには、敷地に入り切れず、大路にはみ出しているものもいます。鎌倉の主要な道の多くは、政子が妊娠の際、頼朝が安産を願って造営したものでした。侍たちの夢だった鎌倉の街並みは、政子の身体深くに、刻みこまれているのです。

政子は男たちに向かって語りかけました。

きっぱりとした命令形で始まる

「いかに侍ども、たしかに聞け。これは私の最後の言葉だ」

きっぱりとした命令形で、演説ははじまります。神がかりではなく、明確な意志と、理智の力が、政子の舌を動かしていました。

「頼朝公が朝敵を征伐して、関東の幕府を創設して以来、皆の官位といい、収入といい、その御恩は山よりも高く、海よりも深い」

この時、政子の脳裏によぎったのは、息を弾ませ、頼朝の元へ走った、あの夜のことだったでしょう。実は、当時、流刑人だった頼朝との結婚に、父、時政は反対で、政子は家出同然に、頼朝のもとに転がり込んだんですね。胸をとどろかせながら、開けた頼朝の部屋の扉、あれはひょっとしたら、新しい時代の扉だったのかもしれません。

「帝は悪人の讒言に惑わされ、理不尽な綸旨を下された。名を惜しむものは、はやく院の家来や裏切者たちを討ち取り、三代将軍の遺産を守り抜け。ただし、上皇方に参じようというものは、ただいますぐに申しきれ」

過去の情に訴えながら、論理は簡潔で明快。見事な名演説です。御家人たちは涙を留めることが出来ず、地面に折伏し号泣するものが続出しました。彼らは皆、上皇を、古い時代を向こうに回して、戦うことを誓いました。

武士たちに心底慕われた政子という存在

院宣に対する返書は、大江広元という政治家が書くことになりましたが、この文面がまた凄まじい。

「こんな綸旨を出されて、政子様がかわいそうです。だから、たくさん武士を集めて、三道から大軍で京都へ行こうと思います。どうぞ西国の武士を集めて待っていてください。そして、どうなるか御簾の陰で(震えて)見ていてください」

注目すべきは、政子がかわいそうという文言があること。頼朝以来の鎌倉の精神、その継承者は政子だという意識が武士達にあったのですね。彼らはまさに政子のために立ちあがったのです。

三道を京都に向かってばく進した、甥の泰時率いる十九万の軍は、激しい戦いのすえ、官軍を破り、京都に乱入しました。後鳥羽上皇は結局、姿を見せず、それどころか、敗戦のあと、内裏に逃げ込もうとした家来たちに「どこへなりと失せろ」と言い放っています。武士が朝廷に対する劣等感を完全になくしたのは、このときでしょう。日本の歴史は確かに転換点を越えたのです。そしれ、それを為したのは、北条政子という、たった一人の女性の「言葉」だったのでした。

母としての政子

承久の乱から4年後の1225年(嘉禄元年)、政子は69歳の生涯を閉じました。間違いなく、日本で最大の政治家の一人だった政子ですが、果たして政治家である自分は、居心地のよいものだったのでしょうか。

晩年に、一つエピソードが残っています。1223年(貞応2年)鎌倉の横町で、三つ子が生まれるという、珍しい出来事がありました。鎌倉中、この話題で持ち切りになりましたが、一番大はしゃぎしたのが政子です。役人を派遣するともに、母親には衣食を与えました。

しかし、翌日、赤子は三人とも死亡。この報を聞いた、政子は我が子が死んだときのように、嘆き悲しんだといいます。政子は非業のうちに三人の子供、大姫、頼家、実朝を失っているのですが、彼女は三つ子にひょっとしたら、自分の子供たちの姿を重ねていたのかもしれません。

女たちが真に政治を主導する日

政子の死によって、卑弥呼からはじまる日本の女性政治家の系譜は絶たれ、今に至るまで彼女に匹敵するだけの女性の政治家は生まれていません。政子が時代を主導した日本のことを、当時の高僧、慈円は「女人入眼の日本国」と表現していますが、再びそう呼ばれるのは、いつの日のことになるのでしょうか。

参考文献:『頼朝の武士団 ~将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉 (歴史新書y)』(細川重男著、洋泉社)/『女人政治の中世―北条政子と日野富子』(田端泰子著、講談社)/『北条政子-尼将軍の時代』(野村育世著、吉川弘文館)

【第一回はこちら】すべての女性がもっとも望むものは何か? アーサー王の物語に学ぶ

(黒澤はゆま)

黒澤はゆま(くろさわ・はゆま)1979年、宮崎生まれ。大阪在住。システムエンジニアの仕事のかたわら、小説教室「玄月の窟」で修業。エージェントに才能を見出され、2013年に歴史小説『劉邦の宦官』(双葉社)でデビュー。2015年10月、真田昌幸を主人公にした第2作『九度山秘録』(河出書房新社)出版。愛するものはお酒と路地の猫。